江戸期の赤間は白酒の里

物の本によると、赤間宿は江戸中期、14軒もの酒屋で賑わっていた。白酒の里として知られていた。

現在は、山本勝屋酒造のみ。30年遡れば、門司吉野屋。85年遡れば、出光蛭子屋(一統だが我が家ではない、今の高梨/村山/大和電器の3軒を占めていた。)

出光系図で、隣の浩さんところが、えびす屋の本家で酒造りをしていたことが明記されている。その上、黒田侯が城山に猿を追いに遊びに来た際に献上した酒を、「猿たたき」と命名したエピソードもある。庄屋恵比須。この家は、お政事件発覚で庄屋職を奪われ、酒造りも禁止された。恵比須屋武右衛門(「薩陽往返記事」1828~1838、高木善助著では、戎屋と表記)の代の話。宿屋に鞍替えしたので宿屋恵比須とも言う。幕末に宿屋業は左前。壬申戸籍では農民と書いてある。この家から、万兵衛(海軍中将)、佳之助(海軍大佐)、勝兵衛(九州大学講師)、武夫(富の寿社長)が出ている。

また、松尾大黒屋も酒造りをしていたことは、「お政」をかじった人は知っている筈。「城井何某と言たけき武士、いつれの頃か、梓の弓のつるを断ち、この赤間の駅に年久しく侍りしか、・・・初めて酒籏を構へ、家名も大黒屋と改めける。」(常盤草)

そして、宗像郡誌で系図を全面公開している伊豆家は、いまでこそ、吉留の酒屋だが、赤間で創業している。伊豆は、10軒ほど赤間/冨士原/吉留に点在するが一統である。出光とは、その点が違う。勝屋(明治の初めは滝口新屋)の隣の伊豆が本家と思うが?

2003年09月09日 08時50分00秒


醤油屋も多かった赤間宿

酒屋が江戸時代14軒というのを、物の本で読みましたが、醤油屋も多かった。

まず第一番に挙げられるのは、我が家だ。出光蛭子屋(酢、醤油醸造、両替商)。明治28年に今の出光不動産事務所家を早田氏に売って、今度9月23日に宝物展示する母屋を人に(八尋綿屋?)貨して、大正年間に戻ってきたときにも醤油だるが有ったと言う。だから、裏返せば、明治28年までは、醤油醸造をやっていたはず。


赤間町並み案内板(法然寺横、我が家の墓の横)には、舩津久戸長が醤油醸造であったことが、明記されている。建物自体は120年前築。

大黒屋分家(お政の松尾クリーニング店)も、醤油醸造をしていた。「七兵衛は其の後、後妻を迎えて酢醤油造の業を営んで平和に暮らしていたがその妻も又一女を産んで早世した。」(昭和13年、宗像高女発行「神郡宗像郷土史」の「お政」)

今の大和電器の所で、45年前まで田中醤油屋(製造)があった。ここは、出光蛭子屋(酒屋)の一部だったので、倉庫が利用可能だったのでしょう。出光酒屋は大正年間に北九州に出て、其の後、大和郡(柳川の近く)に落ち着き、仕立て屋で生活した。同じ墓地に蛭子屋分家と銘打った寄せ墓が、直方線から見える。私の子供のころ、親子でよく我が家の仏壇を拝まれ、我が家を本家、本家と呼ばれていた。だから尚更、隣の庄屋恵比須との関係が見えなくなり、我が家が本家と父は思っていた。伯母は隣が本家と自覚していた。系図を読めば、一目瞭然。庄屋恵比須は1回、我が家は2回絶えている。そして両家とも、今は赤間を去った酒屋蛭子から養子をもらって今に至っている。言いかえれば、赤間を去った酒屋蛭子がとりあえずの本家と言って差し支えないのが事実だ。事実はいつも複雑怪奇。庶民は単純な伝説を欲しがるもの。痛し痒しである。

折尾本城で酢屋佐藤と呼ばれる家がある。名門佐藤が10軒ほどあり、一統だ。その酢屋佐藤は我が家の弟(幕末)の家で、我が家で酢醸造を習って、業を始めている。今は誰も住んでいない。その前の家で芥川賞作家・平野敬一郎は育った。歯医者佐藤茂夫の孫、郵便局長平野直子の子である。平野敬一郎は私とは10親等の関係だ。

2003年09月12日 09時15分52秒



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